
母娘が住む家を新潟市内に何とか見つけなければ。1ヶ月程前から来ていた母の父(私の祖父、父の養父)が、“俺が何とかするから...”と急遽、佐渡へ帰った。
家は中々見付からなかった。とうとう引き上げる日が来てしまった。
父のホラ話に出てきた植田屋旅館に一時的に腰を落ち着ける事となった。
昭和33年10月20日。13年間住み慣れた古河の社宅を、朝、大勢の人に見送られ、涙、涙のお別れ。
福岡空港まで会社の車三台連ねて出発。この時、明美五歳、弘美四歳。空港には所長、課長初め、大勢の人が待っていた。
母は初めての飛行機に物珍しさが手伝って、さっきまでの涙もいつしか消え、外の景色を見る余裕が出てきたが父は痛みが時々襲うので、その都度、会社で付けてくれた保険課長、保健婦が心配して注射を打ったり、薬を飲んだりしていたが苦しそうなので、何度もスチュワーデスが途中着陸しましょうかと様子を見に来てくれた。父が少し落ち着いた頃、母はもう二度と飛行機に乗る事もあるまいと思い、雲の上にほんの少し頭を出している富士山や、大島等をカメラに収めた。私はどうだったのか、母曰く。
保健婦さんはあんたが赤ちゃんの頃から面倒を見てもらってた国広敏子さんと言う人だったから、明美はずっと敏子さんにくっついて遊んで貰っていたし、ヒーちゃんは空の上中、良く眠ってくれていたそうだ。
三時間半位で羽田空港に着くと、父は別の出口から用意された本社の車に移され、母と他の人は普通の出口から出た。国広康彦さんの弟さんで、羽田空港勤務の方が出迎え、妹を抱っこして、父の待つ本社の車の所まで送ってくれた。すでに東京の街は夕暮れとなり、ネオンの輝きを見ながら国道1号線を通り、本社の接待館まで二時間近くかかって辿り着いた。
本社の人が何人も待っていてくれるし、父の同僚だった顔見知りの人も出迎えてくれた。佐渡から母の父もわざわざ迎えに来ていた。本社の心尽くしの夕食を済ませ、東京で一夜を過ごした。
【つづく】 次はいよいよ 新潟へ向かいます
家は中々見付からなかった。とうとう引き上げる日が来てしまった。
父のホラ話に出てきた植田屋旅館に一時的に腰を落ち着ける事となった。
昭和33年10月20日。13年間住み慣れた古河の社宅を、朝、大勢の人に見送られ、涙、涙のお別れ。
福岡空港まで会社の車三台連ねて出発。この時、明美五歳、弘美四歳。空港には所長、課長初め、大勢の人が待っていた。
母は初めての飛行機に物珍しさが手伝って、さっきまでの涙もいつしか消え、外の景色を見る余裕が出てきたが父は痛みが時々襲うので、その都度、会社で付けてくれた保険課長、保健婦が心配して注射を打ったり、薬を飲んだりしていたが苦しそうなので、何度もスチュワーデスが途中着陸しましょうかと様子を見に来てくれた。父が少し落ち着いた頃、母はもう二度と飛行機に乗る事もあるまいと思い、雲の上にほんの少し頭を出している富士山や、大島等をカメラに収めた。私はどうだったのか、母曰く。
保健婦さんはあんたが赤ちゃんの頃から面倒を見てもらってた国広敏子さんと言う人だったから、明美はずっと敏子さんにくっついて遊んで貰っていたし、ヒーちゃんは空の上中、良く眠ってくれていたそうだ。
三時間半位で羽田空港に着くと、父は別の出口から用意された本社の車に移され、母と他の人は普通の出口から出た。国広康彦さんの弟さんで、羽田空港勤務の方が出迎え、妹を抱っこして、父の待つ本社の車の所まで送ってくれた。すでに東京の街は夕暮れとなり、ネオンの輝きを見ながら国道1号線を通り、本社の接待館まで二時間近くかかって辿り着いた。
本社の人が何人も待っていてくれるし、父の同僚だった顔見知りの人も出迎えてくれた。佐渡から母の父もわざわざ迎えに来ていた。本社の心尽くしの夕食を済ませ、東京で一夜を過ごした。


【つづく】 次はいよいよ 新潟へ向かいます
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