こばやし歯科医院 明美先生ブログ

小林明美が生まれ育った家庭のこと、その家庭を守り苦労した母の生き様を”我家の軌跡(奇跡)として随筆中。

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我が家の軌跡(奇跡)【45】

 父が沖縄で終戦を迎えたと聞いていた。宮古島だったと思う。行けば良かったかなと今頃思うが、その頃はただ夏休みを楽しむ事しか頭になかった。
 初めての未知の世界への旅だったから。

 子供の頃、祖父が生きている間は祖父が知り合いの家に遊びに行くのに連れて行かれた。
 
 その祖父が亡くなると(明美が小学二年生の4月に死去)親戚のお世話で夏休みに佐渡に行って父の実家や伯父の家で過ごした。
 いとこ達と夏の暑い中、実家から両津の町まで田んぼのあぜ道を通る近道で行くが、田んぼは遮る物が無いので暑かった。
 街中の道路を小さなカニが歩いているのに出くわす。
 ギャーギャー騒ぎながらやっと両津市内のいとこの家に着くと、おにいさんが素潜りで捕ってきたサザエがバケツにどっさりある。それをおばさんが焼いてくれるので食べたり、するめイカの歯(口?)も竹の籠に一杯干してあり、食べ始めると止まらなくなる。お腹一杯になるといとこ、おばさんみんなでごろ寝してお昼寝。暑い時はお昼寝しなくちゃとおばさんがいつも言ってみんなを寝かせつけてた。

 港近くの海辺でつりをするけど、釣れるのは小さなふぐ。 
 夜は港の盆踊りに繰り出したりで楽しかった。本当は、父、母も行きたかっただろうに。土産話を嬉しそうに聞いていたっけ。

 母は父の実家へ行く坂を(“加茂の坂”と言っていた)若い頃、自転車に乗って下っていた時に、ブレーキが利かなくて突っ走り、加茂湖に落ちそうだった。もう怖くて自転車に乗れなくなったと、未だに自転車に乗れない言い訳を話してくれた。
 大げさな!。加茂の坂から加茂湖までは県道を挟んで突っ切らなければ辿りつけないのに。よっぽど怖かったんだね。

 田舎の農家の家なので、トイレは“ぽっとん便所”と言われる臭ーくておっかないトイレ、夜なんて怖くて、行くなんてとんでもない。だだっ広くて天井の梁が見える所で、いとこ達と寝るけど、枕が変わると眠れない明美は滞在中一睡もしないで、只々柱時計の時を知らすボーンボーンと言う音を数えながらじっと朝になるのを待っていた。

 一人旅だったけど、親戚、いとこのお陰で楽しい夏休みを送った。高校生になると、相模原から新潟まで、勝手知ったる故郷への帰郷といった、親も安心の小旅行をした。小学校、中学校の友との再会が楽しみだった。

 そして大学生になり、夏休みの前半に病院でアルバイトをして行ったのが九州、沖縄10日間の大旅行だった。

つづく

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我が家の軌跡(奇跡)【44】

 大学に入ると、休みの日には母の手伝いをした。
 相模原で外科病院の院長をしている、父の中学時代の同級生。相模原に引っ越してくるきっかけを作ってくれた友人の一人。の好意で、病院内に自動販売機を置かせて頂いた。Coca Cola社の販売機、とお菓子の販売機。当時のコーラ、ファンタグレープ、オレンジはビンで一ケース24本入り、倉庫から販売機まで運ぶが重い。販売機に入れている間中、心無い大人の男性がニヤニヤ笑いながら“おねえちゃん大変だね”と茶化してくる。お陰で人間不信となった。

 大学一年の夏、同級生と二人で、九州、沖縄約10日間の旅に出掛けた。長崎からクイーンコーラル号と言うフェリーで23時間。沖縄に着いた。まだ返還前で左側通行。沖縄海洋博の準備が進んでいた。ここで、医科大に通う福岡時代の幼馴染の男の子と合流。母親同士が姉妹のように仲良しだったので、宿泊費節約のため、帰りの福岡で泊めていただく為と、観光をお願いしてあった。
 
 沖縄の宿は同級生のお友達の家。料理屋さんに連れ行っていただき、初めて沖縄料理を食べた。口に入れようとする直前に、それ豚の耳とか、腸とか言われ、ゲーっと思いながら食べてみた。
 耳はコリコリして酢の物で食べ易かった。美味しく頂けたのは豚の角煮(ラフティ)かな。

つづく

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我が家の軌跡(奇跡)【43】

 高校、大学と淵野辺駅まで歩いて行った。途中の16号線までは毎朝、母とトビーが送ってくれた。そして大学受験を間近に控えた頃、母はこっそり16号線を越えた所にある神社に寄り、お百度参りをしたと、大学に合格してから聞かされた。母はトビーの散歩がてらだったからこそ出来たのかもしれないが、それにしてもそのひたむきさ。明美が母親になった時、同じように出来るのか。疑問である。何はともあれ、合格したことで、母の努力が報われ本当に良かった。

思い返せば、明美は両親に多くの愛情を注がれていたと思う。一時期は妹の方にばかりひいきしていると思った。何しろ、母は“ヒーちゃんがまともだったらお姉ちゃんより色白で美人だったね。足もすらりとして。”と言うのだから。

でも、写真に残されている明美は、良いとこのお嬢さんに写っている。
七五三、お正月の羽子板、雛祭り。人並み以上の道具立て。
“かたわ者”の家の子と指差されないように。生活保護も受けずに何不自由なく。大事に育てられたと感謝している。

 でもやっぱり貧乏は貧乏。高校生の時に新潟から上京した親戚に付き合って横浜に行く事になった明美は、先ず着て行く服がない。靴が無い。バッグがない。洋服と靴は何とか調達できたものの、バッグなしで肩身の狭い思いをしながら行ったのを覚えている。

 大学に入ってからその格差に背伸びしそうになった。

 実際は出来なかった。制服っていいなと思ったものである。

 長い休みにはアルバイトをして、お小遣いを貯めて必要な物を買ったり、旅行も出来た。旅行には流石に親からの援助が必要だったが、負担を少なく出来たと思う。

 自宅から二時間近くかかって通い、大変だったけど親元から通え、家事も手伝い乍、まずまずの大学生活だったと思う。

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 つづく

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