こばやし歯科医院 明美先生ブログ

小林明美が生まれ育った家庭のこと、その家庭を守り苦労した母の生き様を”我家の軌跡(奇跡)として随筆中。

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母は箱入り娘【14】

月二回、親から帰省願が届くと土曜午後、洗濯物とか持って親元へ帰る事が出来る。
どうゆう訳か私はいつも両手いっぱい何を入れて帰ったか思い出せない。

時折、好物をいっぱい食べ、日曜日夕方、寄宿舎に帰る時は煮魚、玉子焼き等の好物を持ち帰る。
舎監の先生に見付かると没収されるので寄宿舎の玄関に入る時は中を窺い乍、走り、入室する。

寄宿舎の食事はひどいものだった。
朝食は、ごはんに味噌汁、漬物二切れに一品何かがつく。
これだけの品で朝食、昼食分となるから何か一品はお昼のおかずとしてお弁当に入れ、空いている処へお漬物を入れる。
朝食は残りのお味噌汁だけ。

始めの一杯は大急ぎで流し込み、二杯目をお椀に入れてやっと落ち着いてご飯を食べる。
のろのろしていると二杯目のお味噌汁は品切れになる為だ。
殆んど二杯目が貰えない事が多かった。

家から持ち帰った時だけあくせくしないでゆっくり食事が出来る。
今と違って冷蔵庫がないから、せいぜい二日間であとは腐ってしまう。

女学生時代は舎監長の椿先生(教頭先生で、糖尿病持ちのお爺ちゃん)とお裁縫の渡辺テイ先生には可愛がられた。

【つづく】

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母は箱入り娘【13】

姉は六年生卒業と同時に植田屋で生活する様になった。沼垂の高等科に通い、家庭教師について勉強をみっちりやり、私立女学校へ入学。
植田屋を手伝い乍、学校に通い、卒業してからも植田屋を手伝っていた。


私も六年生の一学期から植田屋へやられ、礎小学校に通った。
小さな学校から急に大きな、生徒の多い学校に、野浦では優等生でも、礎小学校ではただ面食らってだんだん成績も下がり、冬休み姉と親元に帰った時以来、頑として新潟に戻らなく、姉だけ帰って行った。

三学期から西三川小学校六年生に編入。
教頭先生が一段高いところへ私を上げて、今日から校長先生のお嬢さんが当小学校で学んでくれる事になりました。
大変光栄の事です。と全校生徒に紹介した。
お蔭で先生達の見ていないところでいじめられた。(わざとボールを投げつけたり、高い所から押して落とされたり)
それ以来、教頭先生の事は後々まで嫌いになった。

その時、父は西三川の校長として海岸べりにある電気会社の散宿所の一部を借りて住んでいた。
この散宿所に高野さんと言ってコロコロとして朗らかなお人好しの人が下に住み、私達は二階に住んでいた。
隣は大ぼう網の番屋があり、沖から舟が帰って来ると真っ先にイキの良い魚を持って来てくれ、野菜だけ自分で畑を借りて作っていたが、殆んど頂き物で間に合っていた。

西三川という所は果物は佐渡一美味しい所で、桃、西瓜、ブドウと佐々木農園へいつも行って買ったり、貰ったりと、野浦と比べ物にならない程優雅に暮らしていた。

三ヶ月後、無事、県立河原田高女に合格して寄宿舎生活が始まった。
先に下宿生活をして中学校に通っていた明夫とある日、町中でバッタリ会い、無理矢理ウタ写真館に連れて行かれ、一緒に写真を撮った。
当時男女が一緒に歩いているのを見つかったら休学か退学の時代だったので私は怖くて写真館を出る時もビクビクだった。

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【クリックすると画像が拡大します】
【つづく】次は寄宿舎生活です

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母は箱入り娘【12】

明夫兄さんは良く海へ魚釣りに行き、始めの内は珍しい事もあって姉とくっついて歩いていたが、私はだんだん嫌いになり、少しずつ離れていった。

とにかく脇が臭かったし、痔で夏休みに新潟大学病院で手術をしたり、蓄膿症で河原田の至誠堂耳鼻咽喉科で手術と、あらゆる病気持参で来たので、貧乏世帯には負担が多く、毎月母は、゛主婦の友″と家庭雑誌は取るのを止め、針仕事に精を出しながらブツブツ文句を言っていた。

それに中学校の学費、下宿代と急に出費が増えた為に私達の着る物は英子さんのお下がりと、新潟へ行った時におじいさんに買って貰ったもので、父の収入からはそこまでまかなえなかった様だ。

つづく

つぎは 母のお嬢様振りです。

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