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こばやし歯科医院 明美先生ブログ

小林明美が生まれ育った家庭のこと、その家庭を守り苦労した母の生き様を”我家の軌跡(奇跡)として随筆中。

母は箱入り娘【11】

確か私が新年度から三年生と言う時だったと思う。
家族が1人増えた。それが明夫だった。(明美の未来の父)
これからは兄さんと言え。小学校の校長先生だった父が、家庭の事情で中学にも行けない向学心に燃えた13歳の少年を養子として引き取ったのである。

休みの間中、家に居て一緒に遊んでくれた。
一番喜んだのは千秋さんだったようでお風呂に一緒に入っていた。
それからは毎年春休み、夏休みには帰って来た。(下宿して中学に通っていた)

母がカレーライスを作って皆で食べようとしたら、こんな薬臭いものオラ、イヤだ。と言ったり、鶏肉、うさぎ肉は食べた事がないので初めは毛嫌いしていたようだ。


つづく
次は養子を迎えた中川家の様子です。

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母は箱入り娘【10】

体が弱く細いが体操はたいがい出来た。特に走り幅跳びは得意だった。
佐渡全校の選手の競技会が年に一度、河原田の総合グランドで行われる。私が五年生の時に受持ちの先生が私をどうしても出したいと父に相談したが、体の弱い子をとんでもないと言って断ったとか。後で先生が、和子さんが行ってたら、一等取れたのに。と残念がっていた。
毎年の学期末の学芸会には必ず二つか三つ踊り、歌とやらされていた。“男女七歳にして席を同じうせず″の時代だったから、男の子と女の子が組んでやるフォークダンスを見て父兄は野次やら、笑うやらの大騒ぎだった。
当時、校長先生と言うと村では一番偉かったので、何かあるとあちこちと引っ張り出され、飲まされて、私と姉は酔っ払った父を迎えに良く出向いていた。

学校の昼休み時間になると、私のような腺病質の子や、体の弱い生徒ばかり集めて、甘酒をお椀一杯飲まされた。私は大嫌いで、飲まないと叱られるので、口いっぱい頬張って、外で吐いたりしていた。
それに比べて姉は好き嫌いはないし、私みたいに我が儘でなかったから叱られるところは見た事もなかった。唯、父が五衞ムの柱にかかっている大きな時計の前に姉を立たせて一生懸命教えるのだが中々覚えず、見ていた私の方が先に覚えたために、はがゆがった父がブツブツ小言を言っているのを一度だけ聞いた事があった。

つづく
次回はいよいよ未来の父 登場です

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母は箱入り娘【9】

年に一回、文房具を担いで来る行商の、品の良いおじさんがいた。両津の山と言うお店のおじさん。母は欲しい物があると、その頃は電話がないから、手紙で注文してよく持って来てもらった。
お陰様で辺鄙ながらもあまり不自由していなかった。母は縫い物を頼まれて、着物、襦袢、帯などを縫っていたから、糸や針などを、そして私達の文房具などを注文していた。

母の縫い物の報酬は、お米、野菜、魚、卵などだった。
当時卵は超高級品で、ニワトリを飼っている家の子供でも一家の収入源なので口にする事は出来なかったから、私達も戴いた時とか、病気の時以外はあまり食べた事はなかった。
ただ私は、三歳の時にハシカをして以来、腺病質で、好き嫌いが多く、ガリガリに痩せていたので、頻繁に食べさせて貰っていた。

つづく  次は 腺病質の母の小学生時代です

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